黒部の太陽

黒部の太陽

「黒部の太陽」~黒部川第四発電所・大町トンネル工事

「世紀の大事業」として日本の建設史に残る黒部川第四発電所建設工事。不可能と言われた破砕帯の突破は、どんな困難にも果敢に立ち向かう熊谷組スピリッツとして、工事から60年を経たいまも私たちに受け継がれています。

黒部川第四発電所建設の背景

富山県を流れる黒部川。3千メートル級の山々が連なる北アルプスを水源とし、日本海まで一気に流れ下るこの河川は、水量が豊富なうえに急峻であることから、水力発電に極めて適した条件を備えていました。
黒部川の電源開発は大正時代まで遡ります。戦前に黒部川第三発電所までが完成していましたが、戦後の急速な経済復興で電力は不足し停電が頻発。関西電力は、関西地域の深刻な電力不足を解消するため、さらにその20km上流に黒部川第四発電所(通称:黒四(くろよん))の建設を決めました。

ダム建設の成否を決める大町トンネル

峻険な黒部渓谷へ膨大なダム建設資材を運び込むために計画されたのが、ダム建設地と長野県大町市を結ぶ大町ルートです。その要となるのが、北アルプスを貫く5,430.6mの大町トンネル(現・関電トンネル)でした。そして、その工事の中で最も難しいと言われていた扇沢(大町市)から2,604mの区間を特命で担当したのが熊谷組です。

日本土木史に残る破砕帯との死闘

1956年8月に始まった工事は、当初は極めて順調に推移し、平均日進10m、月進300mを超え、当時のトンネル掘進の日本記録を塗り替えるスピードで進みました。
ところが1957年5月、扇沢の坑口から1,700mほど掘り進んだ地点で、岩盤の中で岩が細かく砕け、地下水を大量に溜め込んだ軟弱な地層である破砕帯に遭遇。切羽からは摂氏4度、最大毎秒660リットルの地下水と大量の土砂が噴出し、掘削作業は中断せざるをえない状況に陥りました。
人が吹き飛ばされるほどの出水と崩落する土砂。黒部の状況が日本中に報道され、黒四建設を危ぶむ世論が高まるなか、それでも工事に携わる者たちは決してあきらめることなく、持てるすべての知識と経験を結集し、この破砕帯に果敢に挑み続けていました。

  • 破砕帯で切羽が崩壊した大町トンネル
    破砕帯で切羽が崩壊した大町トンネル
  • 配水管が無数に走るトンネル内の排水状況
    配水管が無数に走るトンネル内の排水状況

不屈の執念による破砕帯の突破

現場では破砕帯の規模を割り出し、水を抜くために、本坑から何本ものパイロット坑が掘られ、百本以上のボーリングが行われました。当時としては特殊な作業であった薬液注入による軟弱地盤の固化も試みられ、ようやく水量は徐々に減り始めました。そして厳冬期を迎え、破砕帯の水はさらに減少。現場は息を吹き返し、本坑の掘削が再開しました。
そして1957年12月、ついに破砕帯の終わりを告げる固い岩盤が再び現れました。破砕帯の長さはおよそ80m。これを突破するまで、約7ヶ月もの月日がかかりました。

  • 2号パイロットトンネルの湧水状況
    2号パイロットトンネルの湧水状況
  • 71号パイロットトンネルの湧水状況
    71号パイロットトンネルの湧水状況
  • 円型パイロットトンネル
    円型パイロットトンネル
  • 4号パイロットトンネルのボーリング作業
    4号パイロットトンネルのボーリング作業

語り継がれる「黒部の太陽」の物語

この困難に立ち向かった人々の物語は、1964年に木本正次氏のノンフィクション小説「黒部の太陽」に描かれ、1968年には石原裕次郎氏と三船敏郎氏の製作・主演による映画「黒部の太陽」として公開されました。この映画製作には、熊谷組の豊川工場(現・テクノス(株))の敷地内に本物そっくりのトンネルセットを組み立て、大町トンネルで使用されたものと同様の資機材を用いて撮影を行うなど、当社は全面的に協力しました。
また、2008年には大阪の梅田芸術劇場メインホールで、中村獅童氏・神田正輝氏の主演による舞台「黒部の太陽」が上演され、2009年には香取慎吾氏の主演によるフジテレビ開局50周年記念ドラマ「黒部の太陽」として公開されました。当社はこれらにも技術指導・監修などで協力しています。

  • 大町トンネル貫通式
    大町トンネル貫通式
  • 映画「黒部の太陽」のトンネルのセット(豊川工場)
    映画「黒部の太陽」のトンネルのセット(豊川工場)