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ヒストリー

時代が変わっても。
工法が変わっても。
変わることのない熊谷組のDNA。

1898年、福井の石工職人であった熊谷三太郎が、
その腕を見込まれ全国で三番目となる福井県の宿布発電所の工事を請け負ったことから熊谷組の歴史ははじまりました。
いつの時代も、お客さま、そして社会に必要とされる企業であるために。
120年を超えるその軌跡の中で、熊谷組のDNAを象徴する出来事や取り組みをご紹介します。

  • 「100年後に残る仕事をやりたい。」熊谷組法人化へ導いた三信鉄道工事。

    1934

    「100年後に残る仕事をやりたい。」
    熊谷組法人化へ導いた三信鉄道工事。

    険しいV字峡谷、谷底をうねる天竜川の激しい流れ。
    三河と信州を結ぶ峡谷に鉄道を建設するという誰もが尻込む工事に、「百年後に残すべき有意義な仕事をやってみたい」「沿線地方の人びとの利益に貢献したい」という想いで、熊谷三太郎は莫大な工事を一個人として受注。
    見事成し遂げ、熊谷組設立のきっかけとなりました。
    その功績はいまも日本土木界の歴史に残る偉業のひとつと称されています。

  • 抜けないトンネルはない映画化までされた歴史的難工事、通称くろよん建設。

    1956

    抜けないトンネルはない
    映画化までされた歴史的難工事、
    通称くろよん建設。

    経済成長期、日本が深刻な電力不足に陥る中、黒部ダム・黒部川第四発電所(通称くろよん)建設が計画され、熊谷組は北アルプスを貫く5,400mのうち4,560mものトンネル工事を請け負いました。
    当初順調だった工事も、途中で大断層・破砕帯に遭遇。トンネルは大量の湧水と崩落の危機に見舞われつつも、不屈の信念で破砕帯の突破に成功。
    この工事は後に小説「黒部の太陽」で描かれ、映画化もされました。
    その先達の信念は、いまも社内に語り継がれています。

  • 建築の挑戦、土木の飛躍。大型プロジェクトに続々参画。

    1975

    建築の挑戦、土木の飛躍。
    大型プロジェクトに続々参画。

    熊谷組の挑戦は、従来の枠を超え建築分野へ。1975年、地上50階、塔屋3階、地下5階の超高層・新宿野村ビルの建設に着手。日本初の単独施工による超高層ビルとして、建設業界や多くのメディアからも注目を集め、「建築も熊谷」との評価を高めました。土木分野でも着実な実績を積み、いまではトンネルの標準工法として普及しているNATMを日本ではじめて導入。上越新幹線・中山トンネルをはじめとする数々の難工事に携わり、施工したトンネルの数はいまや1,200を超えています。

  • 「どんなことでもやりぬく」熊谷組スピリットを、国内外で発揮。

    1989

    「どんなことでもやりぬく」
    熊谷組スピリットを、国内外で発揮。

    香港からはじまった熊谷組の海外事業は、台湾や東南アジアを中心に世界中へと拡大。その受注額は1985年には1兆円を超え4割強にまで広がり、中でも1989年に完成した香港東部海底トンネルは、BOT方式による事業として注目を集めました。国内においても、世界最大級のシールド機による東京湾アクアラインへの参画など、技術面においても大きな飛躍を遂げました。

    • 民間事業者が施設等を建設し、維持・管理・運営を行い、事業終了後に公共施設等の管理者等に施設所有権を移転する方式。
  • 創業以来の危機を乗り越え、時代に応える新たな挑戦へ。

    2000

    創業以来の危機を乗り越え、
    時代に応える新たな挑戦へ。

    1990年代のバブル崩壊により、他社と同じく熊谷組も大幅な事業の縮小を余儀なくされました。
    建設不況が続く中、熊谷組は当時急速に普及し始めたモバイルの通信基地局や風力・太陽光発電の施設建設など、新たな建設分野にも挑戦。
    苦境の時代にあってもチャレンジ精神を失うことなく、竣工時世界一の高さを誇るTAIPEI101(台湾)や、ITを駆使した無人化施工など未来を見据えた技術開発にも着手しました。
    今日も次の時代を見据え、再生から進化への新たな挑戦をはじめています。

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